「泣いてたよ」 と、は言った。まるで自分が泣きそうになりながら。 涙雨 「こんばんは」 「おや、珍しいお客さんっスね」 月が薄い雲に覆われたとある晩に、浦原商店に一人の珍客が現れた。 縁側で煙管を吹かしていた喜助は、帽子の下から訪ねてきた客の顔を見上げた。 肩にかかるほどの黒髪を、今日は紅色の結い紐で括って。桔梗色の瞳、その美しさはそのままに。 信じられないほど綺麗な造りをしている青年は、静かに庭に現れた。 「久しぶりじゃのう」 「うん。夜一も喜助も元気そうだ」 彼の姿を見るなり、床の上で丸まっていた黒猫は瞬時に人の姿を取る。その素早さに喜助は苦笑する。 普段はどれだけ自分が請うても滅多に人型をとってはくれないのに。立ったままでは何だから、と隣に座るように促すと、 衣擦れの音も爽やかにするりと彼は喜助の横に落ち着いた。 「どうですか。向こうは」 「変わらないよ。いつもと同じ」 「皆、元気にしておるかの」 「元気だよ」 代わる代わる投げかけられる質問に淡々と穏やかに微笑みながら答え、は夜空を見上げる。 月をすっかり隠した雲は、今はかすかにそこに月があるのだという弱々しい光を通すのみ。 「も相変わらず綺麗な顔してるっスね〜」 「喜助、おぬしが言うと犯罪臭いぞ」 「が相手ならそっちの道でも充分イケるっスよ」 「あはは。願い下げだっつうの」 「いやいや、でも本当に綺麗な顔だ。アナタの義骸作るのにはいつも苦労させられましたよ。 それなのに技術開発局では誰も彼もがみんな作りたい作りたいって言うんだから。参っちゃいますよ」 「あら光栄」 軽口の応酬も慣れたもので、数年、あるいは十数年の月日の隔たりなど微塵も感じない。 そんな彼がふと、桔梗色の瞳を細めて夜一を見遣った。 「泣いてたよ」 唇がわずかに動いて告げられた言葉に夜一は鬱金の瞳を訝しげな色に染める。無言で先を促す彼女に、は重ねて言う。 「泣いてたよ。砕蜂」 まるで自分が泣きそうになりながら、は言う。その名に夜一が肩を揺らすのを横目で窺っても、 喜助は煙管で手遊びながら興味なさ気に振舞う。夜一は、何かを言おうと、口を開けるが、 言葉が見つからずに結局は空気を食んだだけでまた閉じた。も俯いてしまった彼女が何か言うのを期待してはいなかったようで、 そのまま視線を再び空へと移す。 「置いていく方が辛い、だなんて言わせない。いつだって置いていかれる方が、残される方が辛いんだから」 「」 誰のことを言っているのか、正確に悟った喜助が彼の名を呼ぶ。しかし視線は返されない。 の二つの瞳はまっすぐに曇った空へ向けられている。そのまましばらく誰も何も喋らない。 そうしている間に厚く空を覆った雲から、ぽつりぽつりと雨が落ちてくる。それは少しの量だったが割合に大粒で、 まるで誰かが流した涙のようで。さやさやと風が吹いて木立を控えめに揺らす。 「いつか」 木々がざわめく音に紛れそうなほどかすかな声で。呟かれた一つの言の葉に夜一がぱっと顔を上げる。 「いつか、ちゃんと。……逢えるといいな。砕蜂と、夜一が。そんでちゃんと仲直りできたら、いいな」 「、儂は」 「そんな日が来ることを願ってるよ。俺は。ずっと、ずっと、祈ってるよ」 「………」 優しすぎる、と。横で聞いていた喜助はを慮る。は優しい。誰にでも優しい。それが例え、 どんな大罪人であっても、きっとは微笑んで手を差し延べるだろう。その優しさにつけこまれ、 自分が害を被ることなど微塵も考えない。誰かの倖せを願わずにはいられないのだ、彼は。まるで贖罪のように、 他人に優しい。いつだって、誰にだって心を砕いている彼は、自分の痛みを外から知られないようにする天才で。 それ故に誰にも気付かれないままひとりで傷ついていく。分かっていても喜助も、夜一も、を置いて去ってしまった身分だ。 今更彼に何が言えるというのだろう。 「アナタは優しすぎるんスよ」 それでも吐き出さずにいられなかった喜助の言葉にが弱々しく微笑んだ。あまりにも儚く、 明け方の夢のように美しく微笑むものだから益々歯痒くなる。ちらり、と視線を夜一に移せば、 鬱金色の瞳を僅かに細めて喜助を見返した。一つ頷けば彼女も意を察したようで、口角を上げて不敵な笑いを刻む。 「、儂も喜助も同じじゃ。何時何処の場所におってもおぬしの倖せを願っておるぞ」 「そうっスよん〜さんの倖せはアタシの倖せでもあるんスから!」 示し合わせた二人はそう言って一斉に間に挟んだの首に腕を回す。突然自分の首に絡み付いてきた二本の腕に、 バランスを崩したは後ろへひっくり返った。びっくりして目を瞬かせるを、人の悪そうな笑みを浮かべた二人が覗き込む。 にかり、と笑われて、の桔梗色の瞳がかすかに潤んだ。眉尻を下げて困ったように、 それでも嬉しそうに笑うに喜助も夜一も笑う。いつの間にか雨は止んでいた。結局庭に雨粒の跡を残しただけで、 大して量は降らなかったようだ。再び顔を出した月の下、三人はまるで子供に返ったかのようにじゃれ合う。 「あー兄ちゃん来てんじゃねーかっ」 物音にかそれとも笑い声にか、気付いて出てきたのは浦原商店の住人で。 ジン太が襖の向こうから床に押し倒され喜助と夜一にもみくちゃにされているを見つけて喜色を露にする。 「何だよ店長!兄ちゃん来てんなら言えよなー!こっそり自分だけで楽しもうってズルイ大人がすることだぞっ」 が来てすぐに知らされなかったことが不満なのか、駆け寄りながらも不平を喜助へぶつけると、 彼は扇の陰でこっそり「それが大人の特権ですから」などと言って夜一に冷たい目で見られた。 「こ、こんばんは……」 パジャマ姿のウルルもとことこやって来ての頭の傍にちょこんと正座した。その頭をくしゃくしゃと撫でてやると、 ジン太が「ウルルずるい!俺も俺も」と自分を割り込ませてくる始末。 「いたっ痛いよジン太くん」 「うるせー!俺より先に兄ちゃんに撫でられるなんてウルルの癖に生意気なんだよ」 「あーはいはい、喧嘩しないのー。ほら、お兄さんの腕はちゃんと二本あるから」 「おや、殿。いらしていたのですか」 風呂上りのテッサイも通りかかり、喜助はやれやれと被っていた帽子を脱ぐと、 いつの間にか猫に戻っていた夜一に苦笑を向けた。誰にでも優しいは当然浦原商店の人間にも慕われていて。 独り占めをするつもりなどさらさら無かったのだが―そもそも夜一が居た時点でそれは叶わない― 少しは邪魔されたくないと思う部分があったのかもしれない。 「テッサイ、お茶とお菓子の用意を頼みますよん」 「了解しました。しかし酒でなくていいのですか?」 「いいんスよ。だっては下戸っスからねぇ」 子供二人に構うはものすごく楽しそうで。見ているこちらまで嬉しくなってくる。テッサイが諒解してその場を離れる。 ふと、喜助はの膝にじゃれつく黒猫を見つけた。 「あーっ!!夜一さんずるいっスよ!その姿でに甘えるなんてっ が小さくって可愛いもの好きだっていうこと計算に入れてるんでしょ!?」 何を言っても夜一は猫のまま、ごろごろと喉を鳴らして満足そうにに擦り寄っている。 ずるいずるいといくら喜助が喚いても事態は変わらず、むしろ五月蝿がられたに疎んじられる始末。 「こうなったらアタシも好みの小さくて可愛いものに変身して」 「できるもんならやってみろ」 決意を言い終わる前に、は腰の刀に手をかけ、鯉口をぱちん、と鳴らす。顔はにこにこと笑顔なのだが、薄ら寒い空気が辺りに満ちている。当然喜助は「いやぁ…冗談っスよ……」と両手を胸の辺りまで掲げて抵抗する意思のないことを示す。それを見ていた夜一が、喜助を嘲笑うかのように「にゃおぅ」とやけに可愛らしく鳴いた。 |